切手の会

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ごあいさつ

 
当会の6月例会は去る6月10日(第2日曜日)午後2時から、鎌倉郵便局別館会議室で開催された。
例会の内容は下記の通りです。

(1)末永会長から、先日横浜駅西口の神奈川県民センターで開催された切手展を参観された感想報告があった。

(2)仕事の関係で長い間欠席の続いていた金子聡太郎会員がほぼ三年振りに出席。現在は広島に在住、時間を
   作っては四国の霊場を歩いているとのこと。いずれは先達の資格を取りたいと言う。そのような話を聴く。

(3)回覧および資料財布・花村会員と山口会員から、7月に発行される地方自治法施行60周年の記念貨幣と
   記念切手について。
  
(4)会報の記事について、記事を執筆した渡辺会員から「鎌倉消印メモ」について、丸一型印の年活字バラエティ
   の補足説明があり、参考資料の回覧があった。





               
           編集・発行人 土 山 忠 滋  



 
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お知らせ

7月例会のご案内

  開 催 日:7月8日(第2日曜日)

  開催時間:午後2時より

  会  場:鎌倉支店 別館2階会議室(鎌倉郵便局裏側のプレハブ)

   * 会場が変更になる場合は、本館の入口に掲示します。

  

 

 

 本会についてのお問い合わせは、下記へお願いします。
   会 長 末 永  直(0467479357



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沿革

昭和55年(1980)8月1日鎌倉郵趣会創設
昭和55年(1980)10月5日~11日第1回切手展「鎌倉幕府800年記念切手展」
昭和56年(1981)7月1日~4日第2回切手展「中央公民館落成記念切手展」
昭和58年(1983)8月3日~4日第3回切手展「鎌倉海水浴場100年記念切手展」
昭和59年(1984)10月3日~5日第4回切手展「鎌倉駅新駅舎落成記念切手展」
昭和60年(1985)6月24日~26日第5回切手展「鎌倉彫切手発行記念切手展」
昭和61年(1986)11月28日~30日第6回切手展「国際平和年記念切手展」
昭和62年(1987)10月6日~8日第7回切手展「国際文通週間記念切手展」
昭和63年(1988)4月10日~12日第8回切手展「鎌倉まつり切手展」
平成元年(1989)5月1日~3日第9回切手展「鎌倉市制50周年切手展」
平成2年(1990)10月5日~7日第10回切手展「鎌倉創立10周年記念切手展」
平成3年(1991)8月12日~18日第11回切手展「鎌倉郵便局窓口ロビー改装記念切手展」
平成4年(1992)10月9日~11日第12回切手展「特殊切手・ともだち発行記念切手展」
平成5年(1993)10月9日~11日第13回切手展「趣味の切手展」
平成6年(1994)10月8日~10日第14回切手展「鎌倉切手展」
平成7年(1995)10月8日~10日第15回切手展「鎌倉郵趣会創立15周年記念切手展」
平成8年(1996)10月10日~12日第16回切手展「鎌倉ふれあい切手展」
平成9年(1997)2月9日こどものための「切手教室」開催
平成9年(1997)10月9日~11日第17回切手展「鎌倉ふれあい切手展」
平成10年(1998)10月9日~11日第18回切手展「風景印50周年切手展」
平成11年(1999)10月9日~11日第19回切手展「鎌倉切手展」
平成12年(2000)10月7日~9日第20回切手展「鎌倉郵趣会創立20周年記念切手展」
平成13年(2001)9月22日~24日第21回切手展「第21回鎌倉切手展」
平成14年(2002)10月12日~14日第22回切手展「第22回鎌倉切手展」
平成15年(2003)10月11日~13日第23回切手展「第23回鎌倉切手展」
平成16年(2004)10月9日~11日第24回切手展「第24回鎌倉切手展」
平成17年(2005)10月8日~10日第25回切手展「鎌倉郵趣会創立25周年記念切手展」
平成18年(2006)10月7日~9日第26回切手展「第26回鎌倉切手展」
平成19年(2007)10月6日~8日第27回切手展「第27回鎌倉切手展」
平成20年(2008)10月11日~13日第28回切手展「第28回鎌倉切手展」
平成21年(2009)10月10日~12日第29回切手展「第29回鎌倉切手展」
平成22年(2010)9月18日~20日第30回切手展「鎌倉郵趣会創立30周年記念切手展」
平成23年(2011)5月8日鎌倉郵趣会報インターネット版発行
平成23年(2011)9月17日~19日 第31回切手展「第31回鎌倉切手展」 
  
  
  
  
  
  
  
  






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鎌倉切手散歩(1)

頼朝の切手

土 山 忠 滋     

 鎌倉の切手といえば、10年ほど前までは数えるほどしかなかった。多少なりとも切手収集に興味のある方なら、戦前の1円切手「鎌倉大仏」や昭和28年に発行された4種の「大仏航空」、あるいは円覚寺の「舎利殿」を描いた30円の普通切手。記念・特殊切手では、第1次国宝シリーズ鎌倉時代の源頼朝像や、近代美術シリーズの「洞窟の頼朝」(前田青邨・画)、伝統的工芸シリーズの「鎌倉彫」(2種)などをご存知だろう。ところが、平成11年の「20世紀デザイン切手」シリーズ発行以降、鎌倉に関係のある切手は急激に増加した。このシリーズの中には、夏目漱石をはじめ、芥川龍之介、大仏次郎、川端康成など、鎌倉に関係した文士たちや、松竹大船撮影所で製作された名作の数々が取り上げられている。また平成11年には、ふるさと切手の神奈川県版で平山郁夫画伯の筆による「源頼朝」が発行された。この他にも、ふるさと切手では「映画監督青春の地・小津安二郎生誕100年」(三重県版)。記念・特殊切手では「日本映画」の10面シート2種などがあり、ここにも松竹大船の作品が数点含まれている。と言うわけで、最近では鎌倉にちなむ切手はかなり多いので、それらの切手を手がかりに気の向くまま、鎌倉散歩を試みたいと思っている。論理的な説明や専門的な解説は苦手なので、随筆的な記述になってしまいそうですが、気の向くままに書かせて戴きたいと思う。
頼朝の切手
 鎌倉幕府の創設者源頼朝を描いた切手は、現在までに3種類が発行されている。
 ◎ 第1次国宝シリーズ(鎌倉時代) 源頼朝像  15円  1968. 9.2発行
 ◎ 近代美術シリーズ(第12集)  洞窟の頼朝  60円  1982.2.25発行
 ◎ ふるさと切手(神奈川県)   源 頼 朝  80円  1999. 9. 2発行

源頼朝像 (1)「源頼朝像」この切手の肖像画は、京都・神護寺蔵、藤原隆信の筆と伝えられてきた。だが最近の研究で、この肖像は源頼朝ではなく、他の人物であることが判明した。文部科学省が検定した教科書や鎌倉市関係の印刷物でも、数年前まではこの肖像を源頼朝として堂々と使用していた。しかし、いまは教科書からも市の印刷物からも、この肖像は消えてしまった。
 では「この肖像は誰か?」ということになるが、現在は足利直義(あしかがただよし、1306~1352)だとする説が有力である。では、足利直義とはどんな人物か簡単に紹介しておこう。直義は足利尊氏の弟で、鎌倉幕府の武将。最初は鎌倉幕府の命令で、倒幕を目指す後醍醐天皇や護良親王(大塔宮)を中心とする勢力と戦ったが、その後、後醍醐天皇側に転じ、建武の新政権成立に協力した。だがこの新政権は、古代天皇制政治の復活を目指す天皇・護良親王を中心とする勢力と、足利氏など在地武将を基盤とする勢力の利害関係とが正面衝突した。天皇と親王は足利氏の排除を計画したが失敗し、天皇は計画の首謀者として親王の身柄を尊氏に引渡した。親王は鎌倉に送られ、直義に預けられた。
 翌建武2年、北條高時の遺児・時行が幕府の再興を意図して鎌倉を攻めた「中先代の乱」が起こると、直義はこれを防ぐことができず、鎌倉を脱出する時、幽閉中の護良親王(大塔宮)を殺害した。その後、尊氏の軍勢によって鎌倉は奪回され、乱は収まったが護良親王の殺害は、兄尊氏に新政権との決別を決意させる引き金になったと言われている。新政権に叛いた尊氏が足利幕府を創設すると、直義は将軍の弟として幕府の実権を握った。だが後に、幕府の執権高師直(こうのもろなお)と争い、尊氏とも不和を生じ、鎌倉で尊氏によって毒殺された。
 この国宝シリーズの肖像が、実は「源頼朝」ではなく鎌倉幕府の有力武将であった足利尊氏の弟であり、それも鎌倉幕府の滅亡に力を貸し、かつ足利幕府の創設に大きな役割を演じた人物であった。また、鎌倉にはゆかりの深い護良親王(大塔宮)を殺害した人物であったとは奇遇である。鎌倉の住人としては興味深いことだ。

洞窟の頼朝 (2)「洞窟の頼朝」は日本画家前田青邨の代表作の一つとして知られている。昭和4年の第16回院展に出品し名声を得た作品で、原画は現在、大倉文化財団の所蔵となっている。作品は戦いに敗れ、追手の様子をうかがいながら洞窟に身を隠している頼朝主従の緊張した情景が描かれている。
青邨の作品はこの他にも、記念・特殊切手「魚介シリーズ」の『まだい』、「近代解剖教育」の『腑分』などの作品が切手の図柄として採用されている。また青邨は北鎌倉に居住していたこともあり、鎌倉には由緒があるので、いずれ稿を改めて紹介したい。

頼朝(ふるさと切手) (3)「源頼朝」この切手が発行されたのは平成11年で、頼朝の没後800年にあたり、ふるさと切手の神奈川県版として発行された。原画作者は市内在住の日本画家・平山郁夫氏。富士山をバックに材木座海岸を馬で走る頼朝の勇姿が描かれている。切手は20面シートのほかにペーン、ゆうペーン(表紙付きペーン)なども同時に発売された。
 鎌倉市内では、頼朝の没後800年に関連した各種の行事が開催されたが、鎌倉局では「ふみカード」や「お便りセット」の販売、営業ロビーでは「鎌倉にちなむ切手展」(協力:鎌倉郵趣会)、を開催した。また鎌倉郵趣会では独自のオリジナル初日カバー(銀座わたなべ版)を作成した。

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鎌倉切手散歩(2)

鎌倉の大仏

土 山 忠 滋     

 長谷の高徳院にある大仏(阿弥陀如来坐像)は鎌倉のシンボルの一つ、青銅で造られ国宝に指定されている。だが、最初からあのような青銅の大仏が造られたわけではない。それ以前に、この地には木造の大仏があった。その最初の大仏は、歴仁元年(1238)に建設をはじめ6年の歳月を費やして大伽藍も含めて完成したが、宝治元年(1247)の台風で倒壊してしまった。その後を受け、現在の青銅像が建長4年(1252)から鋳造が開始された。完成の年月は不明だが、完成された青銅製の大仏は、当時の記録によれば大仏殿の中に安置されていたという。大仏が現在のように露座になったのは、明応4年(1495)の津波で大仏殿が流されてしまったためである。
 大仏といえば、奈良と鎌倉が双璧だが、この二つの大仏には大きな違いがある。奈良の大仏が勅命により、国家の事業として進められたのに対し、鎌倉の大仏は民衆の浄財によって完成したことである。
 鎌倉大仏を描いた切手には下記の5点がある
 ◎ 普通切手 第1次昭和切手 鎌倉の大仏       1円 1939.7.1発行 
 ◎ 航空切手 大仏航空  鎌倉大仏とDC4型機と富士山   70円 1953.8.15発行 
 ◎ 航空切手 大仏航空  鎌倉大仏とDC4型機と富士山    80円 1953.8.15発行
 ◎ 航空切手 大仏航空  鎌倉大仏とDC4型機と富士山   115円 1953.8.15発行 
 ◎ 航空切手 大仏航空  鎌倉大仏とDC4型機と富士山   145円 1953.8.15発行 

(1)鎌倉大仏
鎌倉大仏 1円の「鎌倉の大仏」を含む第1次昭和切手は、昭和12年(1937)から20年(1945)まで発行された。このシリーズはそれまでの普通切手が、主な額面(料金)の図案がみな同じで、額面ごとに刷色を変えて印刷されていたのとは異なり、額面ごとに違った図案と刷色で印刷された。これは、それまでの切手の常識を打ち破るものであった。
 また図案の構想も「世界に冠たる神国・日本を示す」ことを意図して、軍人、神社、植民地の風物等が題材に選ばれ、5厘から10円までの19種が発行された。しかし、このような構想のもとに発行された第1次昭和切手と、それに続く第2次、第3次昭和切手の多くは、太平洋戦争の終結とともに、連合軍総司令部(GHQ)の指示で、軍国主義や侵略政策的な図案だとして、33種類の切手が指定され、製造や販売、使用が禁止になった。これらは「使用禁止切手」あるいは「追放切手」と呼ばれた。だが、幸いにも「鎌倉の大仏」はそれらのなかには含まれなかった。

(2)大仏航空
大仏航空 昭和28年(1953)7月1日からの外国航空郵便料金の改正(引下げ)に伴い、送付先の地域に対応する新料金用の切手として発行された。このシリーズの発行後、ただ1点、「五重塔航空(円位)」の30円コイル切手が発行されている。
 だがこれは、京都中央郵便局に設置する自動販売機用のコイル切手として、急遽「五重塔航空」のデザインを流用して作成され、一般の普通切手として販売された。だが、デザインが「五重塔航空」と同じであったため、カタログ上では航空切手として分類されている。従ってわが国の航空切手は、実質上は「大仏航空」が最後であった。
 鎌倉大仏の横顔を左手前に大きく、遠景には富士の姿が小さく、そして上空を飛行するダグラスDC-4型機、この構図は私の好きなデザインの一つであり、刷色も単色であることがいい。最近のごてごてしたカラー刷りにはない良さがある。

(3)与謝野晶子と大仏
みだれ髪与謝野晶子 これらの切手を見つめていると、何故か与謝野晶子の「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」の歌を想い起こさせる。その歌碑は境内奥の観月堂の傍にある。与謝野晶子は鎌倉を愛し、鎌倉をよく訪れた歌人である。その与謝野晶子も切手となっている。
 ◎ 文化人切手 平成4年  与謝野晶子    62円 1992.11.4発行 
 ◎ 20世紀デザイン切手(第1集) 「みだれ髪」  80円 1999.8.23発行 


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鎌倉切手散歩(3)

明治の文豪 夏目漱石・島崎藤村と鎌倉

土 山 忠 滋   

円覚寺山門
 明治13年(1880)のことだが、日本に滞在していたドイツ人医学者のベルツ博士は、鎌倉が保養地として最適であることを紹介した。また日本の衛生行政の充実に尽力した長尾専斎(内務省衛生局初代局長)が「鎌倉は海水浴場として理想的な海である」と紹介したことから、鎌倉は保養地、別荘地として全国的に知られるようになった。また明治22年には横須賀線が開通して鎌倉駅ができ、さらに明治43年には藤沢から片瀬(現在の江ノ島駅)までであった江ノ電が、鎌倉まで開通した。これらにより、風光明媚で気候の温暖な鎌倉は避暑地、保養地、別荘地として発展し、文学者や芸術家、政治家たちが訪れるようになった。
 明治期、鎌倉に在住、あるいは訪れた文士は数多い。本稿第2回の「鎌倉大仏」の項で紹介した与謝野晶子もその一人であったが、今回は夏目漱石と島崎藤村を取り上げてみることにした。この二人は、偶然にもほぼ同時期に北鎌倉円覚寺の塔頭・帰源院を訪れ、滞在している。藤村は明治26年21歳の時に、漱石は翌27年27歳の時であった。この若き日の参禅は、後に明治を代表する文豪となった二人に、大きな影響をもたらしたことは間違いない。

 (1)夏目漱石(1867~1916)
 漱石の切手は、現在までに次の3点が発行されている。
 ◎ 文化人シリーズ      夏目漱石     8円 昭和25年(1950)4月10日発行
 ◎ 20世紀デザインシリーズ(第1集) 吾輩は猫である 50円 平成11年(1999)8月23日発行
 ◎ 20世紀デザインシリーズ(第1集) 坊っちゃん   50円 平成11年(1999)8月23日発行

夏目漱石 吾輩は猫である・坊っちゃん 漱石は慶応3年(1867)、東京・牛込の喜久井町で、名主を勤めたことのある父・小兵衛直克の5男として生まれた。だがその人生は、里子に出されたり連れ戻されたり、あるいは養子に出されたり再び夏目姓に戻ったりと波乱が多かった。明治17年(1884)、東大予備門に入学、後に東大英文学科を卒業した。
20世紀デザインシリーズ(1) 明治27年には高等師範学校で英語教師を勤めていたが神経を病み、友人の紹介で円覚寺の塔頭・帰源院に止宿し、釈宗演のもとに参禅した。しかし、悟りを得ることができずに寺を辞した。この時の体験は、後に小説「門」や「夢十夜」などに生かされている。その後の明治30年夏には、材木座や、友人の長谷の別荘にも滞在している。ここでの体験も、後に「こころ」で鎌倉の海を舞台としている。
 明治33年(1900)、文部省の留学生としてイギリスに留学した。帰国後は第一高等学校や東大での講師を勤めるが、明治38年頃からは作家としての活動を始め、「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」などを雑誌「ホトトギス」に発表した。だが明治40年には講師を辞し、朝日新聞社に入社して作家生活に入る。以降、大正5年(1916)に49歳で没するまで多くの作品を発表したが、「明暗」は未完成に終わっている。なお、円覚寺の塔頭・帰源院の庭には、漱石の「仏性は白き桔梗にこそあらめ」の句碑がある。

 (2)島崎藤村(1872~1943)
 藤村の切手には下記の1点がある。
 ◎平成5年文化人切手 島崎藤村の肖像と詩  62円  平成5年(1993)11月4日発行

島崎藤村 藤村は明治5年(1872)、長野県西筑摩郡神坂村字馬籠で、明治維新まで庄屋、本陣、問屋を兼ねていた父・正樹の4男として生まれた。漱石より5歳年下である。明治14年9歳の時に上京し、銀座の泰明小学校に入学、三田英学院を経て明治24年に明治学院を卒業しているが、この頃キリスト教の洗礼を受けている。明治25年には明治女学校の教師となり、啓蒙的な「女学雑誌」に翻訳物などを寄稿している。その「女学雑誌」の文学部門が独立する形で「女学生」が刊行され、さらにその「女学生」を継承して文芸雑誌「文学界」が明治26年1月に創刊された。創刊者は鎌倉在住の星野天知、創刊に努力したのは北村透谷であり、藤村は同人として加わった。他にも学生時代からの友人、戸川秋骨、馬場孤蝶などが同人として参加した。
 藤村が円覚寺の塔頭・帰源院で過ごしたのは明治26年というから、ちょうどその頃であったに違いない。それはまた、漱石が滞在する一年前のことである。藤村は帰源院での体験を、のちに「春」で書いている。さらにその頃、藤村は鎌倉に星野天知を訪ねている。その時の様子については「桜の実の熟する時」に書かれている。「文学界」は明治31年1月、通巻58号で廃刊となったが、日本の近代ロマン主義文学運動の先駆的な雑誌であり、樋口一葉、田山花袋、柳田国男らも寄稿していた。
 藤村は明治30年、詩集「若菜集」で名声を得、日本の近代文学史上に詩人としての名を刻んだ。また明治39年には「破戒」を自費出版し、小説家としての地位を確立。「家」「新生」などの作品では自然主義文学の代表的作家となった。明治45年には「千曲川スケッチ」を、昭和10年(1935)には歴史小説「夜明け前」を完成させ、昭和18年には「東方の門」の執筆を開始したがその直後、神奈川県の大磯で71歳の生涯を閉じた。
 漱石と藤村、このほぼ同世代の二人が、ほぼ同時期に鎌倉円覚寺の塔頭・帰源院に参禅したことにより、二人は明治期を代表する大文豪となった。


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鎌倉切手散歩(4)

芥川龍之介と鎌倉

土 山 忠 滋  


芥川龍之介  明治時代、鎌倉を訪れる文化人や政治家は多かったが、定着する人はまだ少なかった。それが大正時代になると次第に増え始め、その中の一人が芥川龍之介(1892~1927)であった。
  芥川龍之介の切手は、左上に掲載した「20世紀デザインシリーズ」第3集に収められた「羅生門」の1点がある。
 ◎ 20世紀デザインシリーズ(第3集) 羅生門 80円 平成11年(1999)10月22日発行
 龍之介は明治25年(1892)、東京の京橋で父・新原敬三と母・フクの長男として生まれた。だが母が病弱のため、母の実家芥川家に預けられて養育された。龍之介が10歳のとき新原家で実母が死亡すると、12歳のとき芥川家の養子となった。府立三中(現・両国高校)に入学し、そこで生涯の友となる久米正雄、菊池寛らと知り合った。その後、第一高等学校を経て東京帝国大学英吉利文学科へと進んだ。幼年時から小説家になることを夢見ていた龍之介は、大学在学中の大正3年に菊池寛、久米正雄らと第三次「新思潮」を創刊し(同年9月に廃刊)創作活動を始めた。翌4年には処女作「羅生門」を帝国文学に発表したが、その作品は発表時には話題にもならずに終わってしまった。そのことは、彼の創作への自信を失わせる結果となった。だがその頃、龍之介は久米とともに夏目漱石を訪ねる機会があり、漱石の感化を受けて再び創作への意欲を取り戻した。以後、漱石の主宰する木曜会に出席し、漱石を師と仰ぐようになった。翌大正5年2月、再び菊池、久米らと第四次「新思潮」を創刊し(翌年3月に終刊)その誌上に発表した「鼻」が漱石の激賞するところとなった。また同年9月、「芋粥」を新小説に発表、この作品が文壇へのデビュー作となり、一躍新人作家としての脚光を浴びることとなった。
 この大正5年は、龍之介にとって人生の大きな転換点であった。7月に大学を卒業し、12月からは横須賀海軍機関学校(現・神奈川歯科大学の敷地辺りか?)での英語教師の職が決まっていた。そのためか鎌倉に下宿を探し、11月から鎌倉の住人となった。下宿先は、由比ガ浜「海浜ホテル」隣の野間西洋洗濯店の離れであった。昼間はそこから横須賀線で海軍機関学校に通い英語教師、夜は下宿での創作活動とが始まった。だがその直後の12月9日、師と仰ぐ夏目漱石が他界した。このことは、龍之介にとっては大きなショックであった。漱石の葬儀が終わって間もない12月16日、龍之介は菅虎雄(一高時代の恩師、由比ガ浜の下宿を世話した人物)とともに、かって漱石が参禅した北鎌倉の円覚寺に釈宗演(1859~1919、臨済宗の僧、円覚寺派、建長寺派の管長を兼務する)を訪問している。多分、漱石の面影と足跡を慕ってのことであったろう。大正6年になると、5月には処女作品集「羅生門」を阿蘭陀書房から刊行したが、その9月には鎌倉の下宿を引き払い、横須賀の汐入に転居する。
 翌7年の2月、幼馴染であった塚本文との結婚を機に、再び鎌倉に居を求めた。場所は元八幡に近い、大町の小山邸内の借家と言われている。そこでの新婚生活も、翌8年3月までの1年と1ヶ月で終わる。実父の新原敬三が68歳で亡くなったこと、海軍機関学校を退職し大阪毎日新聞社の社員となったことが原因だとされている。4月には鎌倉を引き払って東京・田端の実家へ居を移した。
 由比ガ浜での下宿時代から元八幡での新婚時代まで、横須賀での期間も含めて、この期間に龍之介が脱稿あるいは発表した作品には次のようなものがある。 20世紀シリーズ(3)
 大正5年(24歳)、「尾形了斉覚え書」「道祖神」などを脱稿。大正6年(25歳)、「忠義」「貉(むじな)」「偸盗」「世之助の話」「さまよへる猶太人(ユダヤ人)」「沼地」「片恋」「西郷隆盛」「開化の殺人」「英雄の器」「首が落ちた話」などを脱稿し、前にも述べた「羅生門」を5月に刊行し、9月には「或日の大石内蔵之助」を中央公論に発表、10月からは「戯作三昧」を大阪毎日新聞の夕刊に連載を始めている。大正7年(26歳)、「袈裟と盛遠」「踏絵」「京都日記」「開化の殺人」「邪宗門」「あの頃の自分の事」「犬と笛」などの作品を脱稿しているが、5月には「地獄変」を大阪毎日新聞と東京日日新聞に連載を開始している。また7月には童話「蜘蛛の糸」を赤い鳥の創刊号で発表し、「鼻」を春陽堂から刊行している。9月には「奉教人の死」を三田文学で、10月には「枯野抄」を新小説で発表している。大正8年(27歳)、3月までに「開化の良人」「蜜柑」を脱稿し、1月には「傀儡子」を新潮社から刊行、3月には「きりしとほろ上人伝」を新小説で発表している。
 鎌倉を離れた龍之介は、大正10年(29歳)頃から体調を崩し、大正12年の8月、鎌倉駅西口の平野屋旅館に避暑のために滞在している。そこで、同宿の岡本かの子と偶然に知り合った。かの子は、その時の印象をもとに「鶴は病みき」を書いている。
 病状が一段と悪化した大正15年(34歳)4月、妻の文と三男の也寸志(前年の7月に誕生)を伴い、鵠沼海岸の東屋旅館に滞在(後に旅館の貸別荘に移る)し、年末まで東京と往復する生活を続けるが、同年の大晦日、療養のため鎌倉の「小町園」に移る。しかし翌昭和2年1月、義兄・西川豊宅が全焼し、その直後に義兄が自殺する。これもまた、龍之介にとっては大きなショックであった。鵠沼滞在以降も「点鬼簿」「玄鶴山房」「河童」「蜃気楼」「歯車」などを発表したが、6月に「或阿呆の一生」を脱稿し、その原稿を親友の久米正雄に託し7月24日未明に自殺した。
 35歳で生涯を閉じた龍之介が鎌倉で生活したのは、独身時代の由比ガ浜での下宿生活が11ヶ月間、新婚時代の元八幡付近での生活が13ヶ月、合計24ヶ月であった。短い期間ではあったが、龍之介にとっては人生の最も充実した期間であった。龍之介は亡くなる前年、妻の文に「鎌倉を引きあげたのは一生の誤りであった」と語っている。龍之介の「心のふるさとは、鎌倉だった」と筆者は想像している。
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鎌倉切手散歩(5)

鎌倉と白樺派の人々

土山忠滋     
       

吉野作造 「20世紀デザインシリーズ」第3集(平成11年(1999)10月22日発行)に、「大正デモクラシー」のタイトルで納められている一枚の切手がある。切手には吉野作造博士の肖像と、文芸雑誌「白樺」創刊号の表紙とが組み合わされてデザインされている。
 吉野作造博士は政治学者、東大教授で大正初期に民本主義を主唱し、大正デモクラシー運動に指導的な役割を果たしたことで知られている。しかしその原理は、デモクラシーでありながら、主権在民の「民主主義」とは称さず「民本主義」と称した。それは主権が天皇にあった帝国憲法の下では「主権在民」を唱えることが不可能なため、天皇主権下のデモクラシーを「民本主義」と称した。それが、その時代のデモクラシーの限界であったのだろう。
 また、文芸雑誌「白樺」は、明治43年(1940)の4月に創刊された。この雑誌は人道主義、理想主義を標榜し、大正期の文壇に大きな功績を残すとともに、美術の面では印象派の紹介なども行った。だが、大正12年(1923)の関東大震災を機に廃刊となった。
 「白樺」の創刊は明治43年だが、この雑誌には前史があった。日露戦争(明治37~38年)後まもなく、学習院の同級生であった武者小路実篤、志賀直哉、正親町公和、木下利玄らが回覧雑誌「野望」(後に「白樺」と改題)をつくった。それに習い、2年下級の里見弴、園池公致、児島喜久雄らは「麦」を、さらに1年下級の柳宗悦、萱野二十一(郡虎彦)らが「桃園」を始めた。これら三つの回覧雑誌グループが合同を計画し、さらに学習院同窓の有島武郎、有島生馬、その他を同人に加えて創刊したのが「白樺」であった。
 この「白樺」に関係した文士や芸術家たちを白樺派と呼び、「白樺」には鎌倉に関係のある人たちが多かった。
 武者小路実篤 …… 明治18年(1885)、貴族の8男として東京に生まれる。「白樺」には、「芳子」「彼が三十の時」「その妹」「或る青年の夢」「幸福者」などの作品を発表。同誌の主導的役割を果たし、読者にも大きな影響力を与えた。文化勲章受賞者、芸術院会員、昭和51年(1976)、90歳で逝去した。鎌倉には明治21年から27年にかけて毎夏、材木座の光明寺に滞在した。
 志賀直哉 …… 明治16年(1883)、宮城県生まれ。「白樺」には「網走まで」「濁った頭」「クローディアスの日記」「范の犯罪」「城の崎にて」「流行性感冒と石」などを発表する。その後「暗夜行路」などを書き、小説の神様と称された。鎌倉には結
婚した翌年の大正4年、千度小路(現在の雪ノ下)に居住していたことがある。昭和46年(1971)88歳で没した。
 木下利玄 …… 明治19年(1886)、岡山県に生まれ。歌人。「白樺」には、短歌や小品を発表する。大正8年に鎌倉の大町に転入し、翌年に大町町内で転居、大正14年(1925)、39歳で没するまで在住した。報国寺に墓と歌碑がある。
 里見弴 …… 明治21年(1888)、横浜に生まれる。有島武郎と生馬の弟。学習院時代に同級生と回覧雑誌「麦」を発行。のちに「白樺」の創刊に加わり、小説や翻訳物、詩歌などを発表する。その後、独自の道を歩み著作には「安城家の兄弟」や「多情仏心」「大道無門」「極楽とんぼ」など、鎌倉にちなむ作品も多い。幼少期を由比ガ浜の父の別荘で過ごし、大正13年からは鎌倉の各所に住む。昭和28年から昭和58年(1983)に95歳で没するまで、扇が谷に居住した。鎌倉ペンクラブ、鎌倉文庫の創立に尽力し、鎌倉文士の中心的存在であった。なお、現在の鎌倉文学館館長山内静夫氏は、同氏の4男である。
20世紀シリーズ(3A) 有島武郎 …… 明治11年(1878)、東京に生まれる。有島生馬と里見弴の兄。札幌農学校卒業後米国留学、その後欧州を放浪し帰国後は母校の教授となる。「白樺」の創刊に参加し、「或る女(前編)」「宣言」などを発表する。主な作品には「カインの末裔」「生れ出る悩み」「或る女」「惜しみなく愛は奪ふ」などがある。鎌倉に父の別荘があり、幼少期には鎌倉に親しんでいた。また「或る女」の後編は、大正8年に円覚寺の塔頭・松嶺院にこもって執筆したと言われている。大正12年(1923)、45歳で没した。
 有島生馬 …… 画家、小説家。明治15年(1882)、横浜生まれ。有島武郎の弟、里見弴の兄。学習院時代に志賀直哉と親交を結び、東京外国語学校卒業後、洋画家藤島武二の門に入る。その後渡欧し、絵画や彫刻を学ぶ。帰国直後「白樺」創刊に参加し、新体詩や小説を発表。またセザンヌを初めて日本に紹介するなど、わが国の洋画界に残した業績は大きい。少年期には由比ガ浜の父の別荘に住み、大正9年から昭和49年(1974)に92歳で没するまで稲村ガ崎に居住した。
 園池公致 …… 明治19年(1886)、東京に生まれる。父が宮中顧問官であった関係から、11歳のときから5年間、宮中に出仕し明治天皇に仕えた経験をもつ。学習院時代、里見弴らとの回覧雑誌を経て「白樺」に参加し、「薬局」「勘当」「遁走」などを発表した。生来病弱であったため、創作活動からは次第に遠ざかった。昭和49年(1974)、87歳で没したが、鎌倉には大正6年頃から昭和の初期まで大町に居住した。
 長尾善郎 …… 明治21年(1888)東京生まれ。武者小路実篤や志賀直哉との親交から「白樺」創刊の翌年から同人に加わり、「盲目の川」「彼等の運命」などを発表。また戯曲「項羽と劉邦」を連載し、劇作家としても認められる。以後、白樺派の論客として評論活動でも活躍した。鎌倉には大正8年から大町に住み、関東大震災後は、一時期由比ガ浜の叔母の別荘に住み、後に扇が谷に家を建てた。昭和36年(1961)、73歳で没した。
 この他にも、岸田劉生、千家元麿、尾崎喜八、倉田百三、高田博厚など、鎌倉に関係した白樺派の文人・美術家は多い。

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鎌倉切手散歩(6)

鞍馬天狗と丹下左膳

土山忠滋     

 鞍馬天狗と言えば「丹下左膳」とともに、私にとっては思い出の活動写真であり、子供の頃のヒーローであった。これらの作品を、私は場末の映画館で、胸をときめかせながら見たのを覚えている。当時の作品はいずれもモノクロ(白黒)映画で、それも封切館から二番館、三番館を経てやっとたどり着いた場末の番外館なので、画面はフィルムの傷のため細かい筋が何本もはいり、晴れた日なのに雨が降っているような状態だった。時には破損したフィルムのため画面が流れたり、途中で映写がストップしたりする。あるいはフィルムが途中でカットされ、ストーリーのつながらないことなどもしばしばであった。それでも満足で、活動写真は子供たちの間では常に話題となり、現代のアニメやゲームソフトにも匹敵する最大の娯楽であった。

(1)鞍馬天狗と原作者の大仏次郎について
 鞍馬天狗こと倉田典膳は、勤皇討幕派の剣士。姿かたちは浪人スタイルだが、温厚誠実な人柄で、ひたすら庶民と勤皇派を守って佐幕派と戦う。そして彼のそばには、角兵衛獅子の杉作少年と怪盗黒姫の吉兵衛がいた。
 大仏次郎が創作した鞍馬天狗は、丹下左膳とならぶ時代劇のヒーローだったが、丹下左膳のようなニヒリスト的な性格はなく、明朗闊達で折り目正しい剣士ぶりと、あざやかな太刀さばきが、鞍馬天狗の人気を不動のものにした。
 ◎ 20世紀デザインシリーズ(第5集) 鞍馬天狗 80円 平成12年(2000)1月21日
鞍馬天狗 切手に取り上げられた鞍馬天狗は、昭和2年(1927)に封切られた「鞍馬天狗・角兵衛獅子」と思われる。この作品はマキノ映画御室撮影所の作品。原作は大仏次郎、監督曽根純三。主演は嵐寛寿郎だが、当時はまだ嵐寛寿郎とは言わず、嵐長三郎と称して年齢は20歳を少し出た頃であった。マキノ映画入社第1回出演作品として製作された。鞍馬天狗の役には最初、ベテラン俳優の市川右太衛門を予定していた。だが右太衛門が独立プロダクションを設立するため、突然マキノ映画を退社してしまった。そのあとを埋めるため入社したのが、嵐長三郎(嵐寛寿郎)であった。彼の扮した鞍馬天狗は意外な好評を得、話題作となった。黒紋付の着流しに宗十郎頭巾という天狗のスタイルは、寛寿郎が考案したと言われている。
 嵐寛寿郎は「鞍馬天狗」関連の作品を戦前に23本、戦後は松竹、東宝、新東宝、東映の各社で17本の作品に出演し、天狗映画は嵐寛寿郎の十八番の役柄となった。彼以外にも天狗映画に出演した俳優は多いが、やはり天狗映画の極め付けは嵐寛寿郎であろう。
 鞍馬天狗の原作者・大仏次郎は明治30年(1897)横浜市生まれ、本名は野尻清彦。東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業後、鎌倉高等女学校(現・鎌倉女学院高等学校)の教師を約1年勤めたが、外務省の嘱託となる。だがかたわら、翻訳、翻案小説を執筆。大正13年(1924)から雑誌「ポケット」に連載した「鞍馬天狗」が認められ、以来「照る日曇る日」「赤穂浪士」などで大衆文学に新境地を開拓した。また、「霧笛」「帰郷」「宗方姉妹」などの現代小説、「ドレフュス事件」「パリ燃ゆ」などの史伝も執筆、幅広いジャンルで活躍し「天皇の世紀」は絶筆となった。
 東大卒業後の大正10年から長谷に住むが、筆名は長谷の大仏の近くに住んでいたことに由来する。大正12年、関東大震災に遭い材木座に移る。昭和4年、雪ノ下に新居を建て没年まで居住。鎌倉文士の中心的存在であり、環境問題にも力を注いだ。昭和39年、文化勲章を受賞。昭和48年(1973)76歳で没し寿福寺に眠る。

(2)丹下左膳と原作者の林不忘について
 丹下左膳は、林不忘の小説「新版大岡政談」に、脇役として登場した独眼雙手の剣士であった。だが読者から圧倒的な人気を集め、主人公に昇格した。したがって、映画も初期の作品は「新版大岡政談」のタイトルで製作され、その後「丹下左膳」となった。
 ◎ 日本映画Ⅰ(懐かしの名作) 丹下左膳 80円 平成18年(2006)10月10日発行
丹下左膳 切手の画面は、昭和10年(1935)日活映画京都撮影所の作品、「丹下左膳余話 百万両の壺」の主演俳優・大河内伝次郎。監督は山中貞雄である。
 丹下左膳には、名刀「乾雲」「坤龍」の争奪戦を扱ったものと、百万両の謎を秘めた「こけ猿の壺」の争奪戦を扱ったものとがある。二作品とも、それぞれ趣向を変えて何回も映画化されているが、なかには二作品をミックスしたものや、オリジナル・シナリオによるものもある。「丹下左膳」は大河内伝次郎の名演技により一躍時代の寵児となったが、大河内自身ももまた、当り役として戦前・戦後を通じて多くの丹下左膳ものに出演した。
 丹下左膳の原作者林不忘は、本名を長谷川海太郎。明治33年(1900)に新潟県で生まれ、大正6年に函館中学校を中退して上京。翌年、単身アメリカに渡る。大学に籍をおいてコック、その他の職に就きながら勉学に努め、大正13年に帰国した。帰国後「探偵文芸」に参加し、三つのペンネームを持った作家として知られている。谷譲次の名で「めりけんじゃっぷ」ものといわれる「テキサス無頼」などの作品を、また牧逸馬の名で「暁の猟人」などの現代小説やミステリーの翻訳などを、さらに林不忘の名では「大岡政談」などの時代小説を書き、特に「丹下左膳」は圧倒的な人気を得た。
 大正15年から材木座の向福寺に住み、新婚生活を送る。その後、笹目に移り、雪ノ下に邸宅を新築したが、この超人的作家は昭和10年(1935)、35歳の若さでこの世を去った。墓所は妙本寺にある。


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鎌倉切手散歩(7)

松竹大船撮影所と「愛染かつら」

土山忠滋     


 松竹の撮影所が東京の蒲田から、大船に移ってきたのは昭和11年(1936)のことであった。以来65年間に1,495本の作品を世に送り、多くの人々の感動や喜びを与え、笑いや涙を誘ったが平成12年(2000)、その歴史を閉じた。
 松竹の撮影所が大船に移転した理由には、次のような事情があった。昭和6年頃からのことだが、わが国の映画は無声映画からトーキー映画への転換の時代を迎えていた。その頃の松竹蒲田撮影所は工場街にあり、町工場からの騒音は音声の録音を必要とするトーキー映画の製作には不向きな環境であった。それに蒲田では、敷地の拡張も困難なことから移転が計画された。
 都心から電車で一時間以内の距離で、近郊には山や海などのロケーション撮影に適した場所があることなどを条件に、大船の地が選ばれた。大船には約三万坪(99,000㎡)の敷地があり、これは蒲田撮影所の五倍の面積であった。完成した撮影所には、撮影スタジオ、事務所、現像所などの施設が建ち並び、当時は「東洋一の撮影所」と言われた。
 大船に移転した第1作は、大船スタジオ建設記念映画として「家族会議」が製作された。この作品は横光利一の新聞小説を原作に、池田忠雄が脚色し、島津保次郎が監督した。そのストーリーと配役は、次のようなものであった。
 東京兜町の株屋の店主・重住高之(佐分利信)は、株屋の店主とは思えない近代的な教養のある好青年であった。そんな高之に、大阪の二礼株店の娘・泰子(及川道子)と、やはり大阪の梶原株店の娘・清子(桑野道子)とが、ともに恋心を抱いていた。この二人には、それぞれを応援する女性がいた。泰子には池島忍(高杉早苗)が、清子には尾上春子(立花泰子)がついていた。……だが泰子は、父の経営する仁礼株店の番頭・京極錬太郎(高田浩吉)が婿となるのではないかと目されていた。これらの恋愛模様に絡んで、株の買占めや殺人事件などが絡みあい、見事なストーリー展開であった。配役も松竹大船のオールスターキャストで、京都撮影所からは、高田浩吉が呼ばれて出演している。まさに大船移転の第1作にふさわしく、興行的にも充分な成果を挙げた作品であった。(なおこの作品は、戦後の昭和29年、松竹で再映画化されている)
 松竹の撮影所が大船に移転した頃の日本の映画界は、各社が芸術的な文芸作品の制作を競い合っていた。しかし松竹は、そのような方向には見向きもせず、松竹独特の女性娯楽作品、のちに「大船調」と呼ばれる作品にこだわり続けた。それは当時の撮影所長・城戸四郎の信念にもとづくものであったと言われている。また、松竹大船には職人的なスタッフが多く、文芸作品に走る他社の撮影所のスタッフとは雰囲気を異にしていた。そのようなムードの中で、昭和13年に「愛染かつら」が封切られた。当時、その製作に携わっていたスタッフも俳優も、撮影所の幹部も、この作品が大ヒットするなどとは意識せず、職人的な感覚で作り上げた作品であった。しかし、封切りと同時にものすごい反響を呼び、日本映画の戦前における最大のヒット作品となった。
 ◎ 20世紀デザインシリーズ(第8集) 「愛染かつら」 80円 平成12年(2000)3月23日発行
愛染かつら この大ヒットには松竹の経営陣も驚き、同じスタッフで「続愛染かつら」(昭和14年)、「愛染かつら・完結篇」(同)を製作した。その後、映画界ではヒット作が出ると、続けて同種の企画を三本まで追いかける習慣が生まれた。そのきっかけは「愛染かつら」の成功によるものである。
 この映画がヒットした要因は、映画のストーリーに大衆受けのする要素が多かった。ヒロイン田中絹代は、幼児を抱えて可憐に生きる若くて美しい看護婦(師)だった。その相手役は二枚目俳優としての人気絶頂であった上原謙。彼は病院長の息子で、若き医師に扮し純情ひたむきに彼女を愛した。こうしたお膳立てのととのった川口松太郎の原作を、ベテランシナリオライターの野田高梧が手際よく脚色し、これでもか、これでもかと観衆の心を捉え盛り上げた。更に善玉悪玉を縦横に駆使して、泣かせ、笑わせ、ハラハラさせた。また監督の野村浩将も当時は脂の乗りきった時期で、シナリオの確かさと監督の演出技法とが相まって、このような作品を完成させた。
田中絹代 恋する二人が、すべてを捨てて、京都へ向かおうと新橋駅で待ち合わせた。だが、折悪しくヒロインの娘が急病となり、タクシーで駅に着いた時、すでに列車の発車ベルが鳴っていた。列車の中でイライラして待つ上原謙、駅の大時計の針が時を刻む。田中絹代は階段を駆け上るが、列車は動き出し、裏切られた思いの上原を乗せた列車が轟音とともに去ってゆく。さらに、この作品をヒットさせたもう一つの要因は、主題歌の挿入だと言われている。西条八十作詞、万城目正作曲の「旅の夜風」は、霧島昇、松原操(ミス・コロンビア)のコンビによって歌われ、レコードもまたベストセラーとなり一世を風靡した。映画では、大時計のアップのあたりから主題歌の「旅の夜風」が挿入され、霧島と松原の歌が画面と重なり、観客の涙を絞りに絞った。
 なお、「愛染かつら」その他、数々の作品で主役を演じた大女優田中絹代は、いま円覚寺の塔頭・松嶺院の墓地に眠り、墓石にはブロンズのレリーフが在りし日の面影を忍ばせている。
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鎌倉切手散歩(8)

「リンゴの唄」は松竹大船撮影所から

土山忠滋      

 太平洋戦争中、日本の劇場用映画は国策上から、製作会社は東宝、松竹、大映の三社に統合され、劇場や映画館への作品配給も国策に沿った配給公社によって行われた。製作会社への撮影用フィルムは割り当て制で、しかも製作する作品は企画の段階から完成まで、検閲制度による厳しいチェックが行われた。このような状況では自由な映画製作はできず、国民の戦意高揚を意図した作品しか作れなかった。と言うより、製作が認められなかった。また、どこの撮影所でも多くの従業員が戦場に駆り出され、撮影やセットの製作に必要な資材は不足し、製作能力と質とが低下していた。
 昭和20年(1945)8月15日、終戦を迎えると映画界は大混乱におちいった。各撮影所で製作中の作品のほとんどは、軍部の戦争遂行に協力する作品か、軍部の戦果や行動を賛美する作品だったので、製作を中止せざるを得なかった。しかし、新しい作品を企画し完成させるには、急いでも数ヶ月の期間が必要であった。その間、各社は配給する作品がなく、収入の見込みもたたなかった。また続々と復員してくる社員を復職させるが、仕事も資金も欠乏していた。戦後の各映画会社や撮影所では労働組合が結成され、労働条件や賃上げの要求が始まった。さらに追い打ちをかけるように、駐日連合軍総司令部からの指令で、戦犯映画人の追放が始まり、映画会社の役員や撮影所の幹部が、軍国主義的な映画の製作に加担したとの理由で公職から追放された(会社や団体の仕事を辞めさせられた)。
 このような混乱の中で、松竹は戦前の作品を編集し直したり、プリントを焼き直して直営館に配給し、いち早く体制を建て直すことが出来た。ちなみに、戦後の第一週に封切られた日本映画は、松竹大船撮影所の作品「伊豆の娘たち」(監督・五所平之助)であた。この作品は小品の喜劇で、戦時中に完成していたが、戦時下のために公開が出来なかった作品である。
 また、松竹映画の戦後の第1作は、大船撮影所の、佐々木康監督による娯楽作品「そよ風」であった。この作品の中で並木路子が歌った「リンゴの唄」は、明るく健康的で、希望に満ちていたので、戦後の日本を、町から村へと風のように広がり大ヒットした。米軍の軍楽隊も、この曲を演奏曲目の一つに加えるほどであった。この歌が松竹映画の挿入歌であったことは余り知られていない。
リンゴの唄1
◎ わたしの愛唱歌シリーズ(第7集) 「リンゴの唄」 50円  
平成10年(1998)11月24日発行(写真1)

リンゴの唄2

◎ 20世紀デザインシリーズ(第10集) 「リンゴの唄」 80円  
平成12年(2000)5月23日発行(写真2)

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鎌倉切手散歩(9)

松竹映画 木下恵介の活躍
土山忠滋        

 戦後の松竹映画を背負い、日本映画の黄金期を築いた監督の一人に木下恵介がいる。彼は大正元年(1912)に静岡県の浜松市に生まれ、小学3年の頃からさかんに映画を見たという。浜松工業学校の紡績科に進学したが、映画の道に進むことを決意して中退。その後、東京の写真館や工藤写真研究所などで修行したのち、オリエンタル写真学校で学ぶ。
 昭和8年(1933)、21歳のとき松竹キネマ蒲田撮影所の現像部に入り、のちに島津保次郎監督の撮影助手となった。昭和11年、撮影所が大船に移ってから、島津保次郎監督に引き抜かれて助監督となったが、昭和15年、召集令状を受けて入隊。中国各地を転戦するが、怪我のため内地に送還され召集解除となった。
 昭和18年(1943)、31歳で監督に昇進。第1回作品「花咲く港」を監督した。この作品で、優れた新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞する。
 昭和19年、火野葦平原作の「陸軍」を撮るが、ラストシーンで息子を追う母親の姿が、軍国の母として女々しいと陸軍から批判されたため、辞表を提出して浜松に帰る。だが、所長に慰留されて撮影所に戻る。
 昭和21年(1946)、戦後の第1作として「大曽根家の朝」を撮った。この作品は、昨日までの軍国主義が、敗戦によって手のひらを返すように民主主義の旋風が吹きまくった時代の世相を象徴するような映画で、その年のキネマ旬報のベストテン1位にランクされた。
 その後、昭和21年には「わが恋せし乙女」を、22年には「結婚」と「不死鳥」、23年には「女」「肖像」「破戒」、24年には「お嬢さん乾杯」「破れ太鼓」、25年には「婚約指環」を監督した。木下恵介は松竹大船撮影所の監督として、他の監督に比べると数多くの作品を手がけ、しかも多数のヒット作や秀作を生み出している。松竹にとって木下恵介は、確実に稼ぐ監督だった。

カルメン故郷に帰る
 ◎ 日本映画 Ⅰ 「カルメン故郷に帰る」 80円  平成18年(2006)10月10日発行

 昭和26年は(1951)、松竹が創設されてから30周年の記念の年だった。この年、松竹が特に注目されたのは、日本最初の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」を公開したことた。この作品は、富士写真フィルムが自社の色彩フィルム「フジ・カラー」の製造設備が完成したので、わが国で初めての天然色劇映画の製作を企画し、松竹映画と提携して製作した作品であった。富士写真にしろ、松竹にしろ、最初の試みなのでテストを重ね、万全の体制で取り組んだが、発色状態などに多少の問題点もあった。だが、国産フィルムによる第1回作品としては大成功であった。脚色と監督は木下恵介で、高峰秀子、小林トシ子、佐野周二、井川邦子、その他が出演した。あまり頭のよくないカルメンと名乗るダンサーが、同輩と故郷の信州の農村に帰り、たちまち村中に話題を巻き起こす話で、キネマ旬報のベストテン4位にランクされた。
 また、昭和29年(1954)に公開された壺井栄の小説「二十四の瞳」の映画化は、これも話題を呼び、映画作家としての木下恵介の地位を不動のものとした作品である。
 二十四の瞳とは、12人の子供の目である。30年にわたる歳月を、成長してゆく子供たちと女教師の姿を瀬戸内海の小豆島を背景に、詩情豊かに描いた秀作である。主演の高峰秀子は、娘時代から老婆までを演じている。昭和29年のベストテン1位にランクされた。
 その後も、「野菊の如き君なりき」「喜びも悲しみも幾歳月」「楢山節考」その他、多くの佳作、秀作を生み出すが、「香華」を最後に31年間にわたる松竹生活にピリオドを打った。以後はテレビ界に進出、「木下恵介劇場」その他のテレビドラマを制作する。
 昭和52年(1977)に紫綬褒章を受章、昭和63年(1988)、第49作「父」を公開するが、これが最後の作品となる。平成3年(1991)、国の文化功労者に選ばれたが、平成10年(1998)、12月30日逝去。享年86歳。墓所は北鎌倉の円覚寺内にあり、近くには小津安二郎も眠っている。

二十四の瞳

 ◎ 20世紀デザインシリーズ(第10集) 「二十四の瞳」 80円
 平成12年(2000)3月23日発行

二十四の瞳ー2
 ◎ ふるさと切手(香川県) 「二十四の瞳」 80円
 平成5年(1993)3月23日発行
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鎌倉切手散歩(10)

映画の芸術家 小津安二郎

土山忠滋     

小津の撮影風景 松竹映画と言えば、もう一人忘れてはならない監督がいる。それは小津安二郎である。小津と言えば北鎌倉を思い浮かべる。「晩春」とか「麦秋」のイメージが強く印象に残っているためかも知れないが、小津自身も昭和27年頃から北鎌倉の浄智寺の近くに、母と共に住んでいた。小津は生涯に54本の作品を監督しているが、この本数は他の監督と比べても少ない本数ではない。これを戦前・戦後で比較してみると、戦前が39本、戦後は15本の作品を撮っている。戦後は年平均1本という計算になる。
 小津安二郎は明治36年(1903)12月12日、東京の深川で生まれた。父は肥料問屋の大番頭であった。安二郎は、明治43年に明治尋常小学校に入学したが、4年に進級するとき、一家は父を東京に残し、母と5人の子供たち(男三人、女二人)は、父の故郷三重県の松坂に移った。これは子供たちの健康と教育のためと言われている。安二郎は松坂町立第2尋常小学校に転入し、その年自宅の近くで初めて映画を見ている。大正5年(1916)には、伊勢市の宇治山田中学校(現・伊勢高校)に入学したが、この頃に見た映画で「将来は映画監督になりたい」と心に決めたという。大正10年、父の命令で高等学校(現在の大学)を受験するが失敗する。翌年もまた失敗し、宮前尋常小学の代用教員となる。安二郎は、映画をやりたくて、大学に進学する気はさらさらなかったと語っている。
 父は、安二郎が高等学校へ進学することを希望し、映画の仕事には反対であった。だが、大正12年やっと映画の仕事に就くことを許された。安二郎は代用教員を辞め、東京の深川へ戻った。そして、叔父の紹介で松竹キネマ蒲田撮影所に撮影助手として入社したが、その年の9月、関東大震災で撮影所は被害を受け、映画製作は一時、京都撮影所に移された。そのような事情が影響したのか同年12月、安二郎は休職して一年志願兵となり軍役に服務した。翌年、伍長で除隊し、震災から復旧した蒲田撮影所に復職した。
 大正15年、大久保忠素の助監督となり、翌年「瓦版かちかち山」の脚本を書くが、これが認めらてれ時代劇部の監督となり、安二郎にとっては唯一の時代劇「懺悔の刃(ざんげのやいば)」で監督デビュー、松竹蒲田の無声映画時代から頭角を現し、昭和7年には「生まれてはみたけれど」、同8年には「出来ごころ」、同9年には「浮草物語」でキネマ旬報のベストテン1位を3年連続して獲得し、一流監督としての地歩を固めた。
 撮影所が蒲田から大船に移った翌年の昭和12年、日中戦争が始まると同年の9月召集を受けて出征する。中国各地を転戦するが、14年6月に帰還命令を受け、7月に神戸で除隊となり、撮影所に復職した。帰還後の第1作に「お茶漬けの味」を企画したが、戦時下の国家検閲のため封切り中止となった(この作品は、戦後の昭和27年に台本を書き直して映画化された)。昭和16年の「戸田家の姉妹」は、キネマ旬報の第1位を獲得した。また17年には「父ありき」を撮り、この作品で笠智衆が初めて小津作品の主役をつとめた。
 昭和18年、軍部(南方総軍司令部)からの要請で、撮影技師の原田雄春、脚本家の斉藤良輔らとシンガポールに渡った。目的は、日本軍がインドを英国の支配から解放するという映画を作るためだった。だが、戦況の悪化で撮影は出来ず、軍が接収した「市民ケーン」「ファンタジア」などのアメリカ映画を100本以上を見たという。
 昭和21年に帰国したが、すぐ仕事には入らなかった。疲れていたのか、急変した日本の姿にショックを受けたのか、22年になってやっと「長屋紳士録」を監督し日本の映画界に復帰した。だが、この作品はあまり感心できる仕上がりではなかった。翌23年の「風の中の牝鶏」も、なにか中途半端な作品であった。
 だがその翌年、昭和24年に「晩春」を監督し、一気に戦後の不調から回復して本来の小津に戻った。この作品で初めて原節子を起用し、キネマ旬報の第1位を獲得した。またこの作品から、小津作品のシナリオはすべて野田高梧が担当するようになり、25年には「宗方姉妹」と「麦秋」を撮った。そして27年には、戦時中に企画したシナリオに手を入れて「お茶漬けの味」を撮った。だがこの作品は、時代の背景を戦時中から戦後に置き換えるという無理があったためか、残念ながら失敗作に数えられている。
東京物語 昭和28年、松竹の小津を世界の小津に押し上げた「東京物語」を監督した。この作品は尾道ロケが新聞の記事になるなど、公開前から注目を集めた。だが、この年のキネマ旬報のベストテンの1位には、今井正監督の「にごりえ」が選ばれ、「東京物語」は2位に終わった。またこの作品がロンドン映画祭で、第1回サザランド賞を受賞したのは封切りから5年後の昭和33年であった。この作品は日本でよりも海外で高く評価された。
  「東京物語」以降、31年に「早春」、32年に「東京暮色」、33年には小津初めてのカラー作品「彼岸花」を撮り、この年に紫綬褒章を受けた。34年には「お早よう」と「浮草」の2本を撮り、この年には映画人最初の芸術院賞を受賞した。35年には「秋日和」、36年には「小早川家の秋」を、そして37年には「秋刀魚の味」を完成。この年、芸術院会員となった。
 昭和38年(1963)2月、次回作を「大根と人参」と決めるが、4月に国立がんセンターに入院、右頚の腫物の除去手術を行う。7月に退院するが、経過が思わしくなく、自宅で療養する。9月には、家族や友人から「ガン」であることを知らされる。10月、東京医科歯科大学付属病院に入院するが12月12日、奇々しくも満60歳の還暦の誕生日に逝去。北鎌倉の円覚寺の墓地に母と眠る。
 また、小津が小学校時代から、代用教員をしていた頃までを過ごした三重県の松坂には、「小津安二郎青春館」が開館、監督の青春時代を彷彿とさせる品物や関係写真などで当時を再現・展示している。


 < 写真 上 >
 ◎ ふるさと切手(三重県)  「映画監督青春の地」 小津安二郎生誕百年 80円 平成15年(2003)10月23日発行 
 
 < 写真 下 >
 ◎ 日本映画 Ⅰ  「東京物語」 80円 平成18年(2006)10月10日発行


   
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鎌倉切手散歩(11)

大ヒットした松竹映画「君の名は」

土山忠滋     

君の名は 昭和28年(1953)11月3日、前号で紹介した小津安二郎の「東京物語」が封切られたが、それより2ヶ月ほど前の9月15日、松竹系の映画館では「君の名は」が封切られ大ヒットした。この作品は、昭和27年(1952)からNHKで放送された連続ラジオドラマを映画化しものであった。ラジオドラマでは台本を菊田一夫が、音楽を古関裕而が担当した。番組は毎回、声優・来宮良子の「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」と言うナレーションで始まり、それに古関裕而によるハモンドオルガンのテーマ曲が流れる。すると多くの女性がラジオの前に引き付けられた。真偽は判らないが、放送日の夕刻、番組が始まる時間になると「銭湯の女湯から人が消える」と言われるほどの人気だった。
 ストーリーは太平洋戦争中の、東京大空襲の夜から始まる。焼夷弾が降り注ぐ中で、たまたま知り合った真知子と春樹は、助け合って逃げ回るうちに銀座の数寄屋橋まで来てしまう。二人はお互いの無事を確認すると、名も名乗らないまま「お互いに生きていたら半年後に、それが駄目ならさらに半年後に、この橋で会おう」と約束して別れる。やがて二人は運命の渦に巻き込まれ、互いに数寄屋橋で相手を待つが、再会は出来なかった。やっと会えた時には、真知子は既に人妻となっていた。だが夫との生活に悩む真知子。そんな彼女を気にかける春樹。さらに二人をめぐる人々の間で、運命はさらなる展開を続けた。「会えそうで会えない」という事態を何度も繰り返す「すれ違い」は、この作品の特徴であり、「すれ違いドラマ」の典型となった。NHKのラジオドラマでは、ヒロインの氏家真知子を阿里美知子が、相手役の後宮春樹を北沢彪が演じた。
 松竹による映画化は、監督を大庭秀雄が担当し、後宮春樹役を佐田啓二が、氏家真知子役を岸恵子が演じた。「君の名は」は映画でも大ヒットし、第3部まで製作され、さらに総集編(再編集版)も作られた。またこの作品で、岸恵子が演じる主人公真知子が、首からさらに耳や頭を包んで一周させたショールの巻き方が女性の間で大流行し、「真知子巻き」と呼ばれた。この巻き方はスタイリストの発想ではなく、岸恵子が撮影の合間、あまりの寒さにショールで耳や頭をくるんでいた。それをそのまま実際の撮影でも使ったという。勿論、監督やカメラマンが、その姿に新鮮さを感じたからであろう。

切手の写真
◎ 20世紀デザインシリーズ(第10集)「君の名は」 80円 平成12年(2000)5月23日発行

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鎌倉切手散歩(12)

山田洋次の登場と「男はつらいよ」

土山忠滋     

 昭和20年代から30年代の前半(1945~1960)、松竹大船撮影所では木下恵介、小津安二郎、中村登、渋谷実、吉村公三郎、大庭秀雄らのベテラン監督が活躍し、多くの名作やヒット作を手がけ、日本映画の黄金時代を築いていた。しかし昭和30年代の後半以降(1961)、テレビの普及や娯楽の多様化に伴い、映画は凋落の一途をたどり始めていた。その中にあって大船撮影所では、新人監督たちによる新しい時代への模索が始まっていた。大島渚、篠田正浩、吉田喜重らは松竹ヌーヴェルヴァーグの監督として注目を浴び活躍もしたが、松竹から独立して行った。その中にあって同世代の監督であった山田洋次は、地味な存在であり「下町の太陽」「馬鹿まるだし」などのコメディを監督していた。
 山田洋次は昭和6年(1931)、大阪府豊中市に生まれたが、父親が満鉄の社員であったため、2歳で満州(現在の中国東北部)に渡り少年期を満州で過ごした。一家は昭和22年(1947)、中国から引揚げ、山口県の宇部に落ち着いた。学業は旧制宇部中学(現・山口県立宇部高校)から旧制の山口高等学校(現・山口大学)に進むが、在学中に学制改革を経験、新制の東京都立小山台高校に移り、東大法学部に進学した。昭和29年(1954)、東大を卒業し松竹に入社。野村芳太郎監督の助監督を勤めるとともに脚本も書いた。昭和36年(1961)、「二階の他人」で監督となった。昭和44年(1969)渥美清を主演に「男はつらいよ」を監督し大ヒットとなった。この作品はシリーズ化されることになり、第2作「続・男はつらいよ」も山田洋次が監督したが、第3作「男はつらいよフーテンの寅」は森崎東が、第4作「新・男はつらいよ」は小林俊一が監督をした。だが脚本はいずれも山田洋次であった。そして第5作「男はつらいよ望郷篇」を山田洋次が監督してこのシリーズは終了する予定だった。だが余りのヒットに、松竹は続編の製作を決定した。このシリーズは余りにも有名なので、内容やストーリーについては省略させて頂くが、以後、平成7年(1995)までの27年間に48本の作品と、平成9年(1997)に特別編1本が製作され、国民的映画とまで言われた。
 「男はつらいよ」シリーズは全作品がヒットして、松竹のドル箱シリーズとなり、第50作まで企画さ
れていた。だが渥美の死により、平成7年(1995)の第48作「寅次郎紅の花」をもってこのシリーズは幕を閉じた。
 だが、その後ファンからの声で「寅次郎ハイビスカスの花」を再編集し、新撮影分を加えて「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」を作成し、平成9年(1997)に公開した。
 山田洋次は「男はつらいよ」と並行して、「家族」(昭和45年)、「故郷」(同47年)、「同胞」(同50年)、「幸福の黄色いハンカチ」(同52年)、「キネマの天地」(同61年)、「息子」(平成3年)、などの作品を完成させている。また「学校」シリーズ(全4作)についても、平成5年からスタートしている。渥美の死後は「虹をつかむ男」全2作、「たそがれ清兵衛」、などの秀作を監督し松竹映画の存在をアピールしたが、松竹映画全体の業績を向上させることは出来なかった。
 松竹は起死回生の切札として大船撮影所の敷地内に平成7年(1995)、テーマパーク「シネマワールド」をオープンさせた。当初は毎月17万人の来場者があったが、駐車場の不便さ、リピーター性に乏しかったなどの理由から来場者は減少し、平成10年12月わずか3年で閉館する。また、撮影所も閉鎖され、敷地は平成12年(2000)に売却された。
 なお、松竹大船撮影所で制作された最後の作品は、山田洋次監督の「学校Ⅳ」であった。撮影所の敷地は現在、鎌倉女子大学のキャンパスとなり、撮影所を偲ぶものとしては校舎の一隅に、わずか数平方メートルのコーナーがあり、一台のミッチェル撮影機と壁面に写真パネル数枚が飾られている。でも、観覧は自由にできない。校門横の守衛所で申請し、許可を受けなければ入れない。これが、かっての松竹映画大船撮影所の姿である。


男はつらいよ 2
20世紀デザインシリーズ第13集(男はつらいよ)80円 平成12年8月23日発行


男はつらいよ 1
日本映画第2集(男はつらいよ)80円 平成18年10月10日発行







      鎌倉切手散歩は、筆者の都合により暫く休ませていただきます。


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編集・発行人  土山忠滋
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